茶屋町

茶屋町は、東は鶴野町、西は芝田一丁目、南は角田町、北は豊崎に囲まれた地域です。明治30年(1897)4月1日に、西成郡北野村が北区に編入されて大字北野となり、明治33年(1900)4月に大字改編で北野は18大字に分割され、その一つの町名として北野茶屋町が誕生しました。さらに大正13年(1924)6月1日の町名改正で北野の冠称を廃して茶屋町となり、昭和53年(1978)に一部が角田町として分離し、鶴野町や芝田町、小深町のそれぞれ一部を編入して現在に至っています。

 

町名の由来は、茶屋町を南北に縦断する旧能勢街道(池田街道)に、3軒の茶屋(「鶴乃茶屋」、「萩乃茶屋」、「車乃茶屋」)があったことに由来します(鶴野町も同様)。明治初期はこの一帯は広々とした田園で、お茶屋が点在し、大阪の旦那衆が風情を楽しむ憩いの場でした。また、明治22年(1889)には当時としては画期的な木造9階建ての楼閣・「凌雲閣」が建てられていました。 

 

明治後期には住宅化が進み、大正、昭和にかけてはメリヤスの工場が多く建ち並んでいました。

 

そうした茶屋町の変遷を明治の初年頃から見守ってきたのが綱敷天神社御旅社です。この御旅社は、綱敷天神社御本社(大阪市北区神山町)に鎮座される神が、夏の渡御祭の際にお休みになられるための社で、茶屋町に氏神として迎えたのが始まりです。現在の社殿は昭和59年(1984)に旧社殿の老朽化と、度重なる淀川の洪水から御神体をお守りするために建て直されたものです。今も昔も変わらず梅田東のまちの信仰の要としての役割を担っています。